世界易経大会で風水大師賞を受賞

 2019年10月5日、6日の両日、東京の国立オリンピック青少年センターで、第6回世界健康禅武医気易総合大会、第19回世界気功太極中医天然療法大会、第22回世界易経大会が開催されました。大会会長は秦西平氏(全日本少林寺気功協会会長)日本、中国、台湾、マレーシア、フィリピン、タイ、アメリカ、カナダ、イタリアなど各国から、600名もの研究家、実践家が参加し、論文発表や演武を披露しました。

私は5日に「広島城下町の風水」をテーマに発表しました。
(論文の詳細はページ下記をご覧ください。)
この論文が「風水大師賞」を受賞し、望外の喜びです。
 現代風水研究会秘書長の易海陽光(倪鍔)さんは「易経―宇宙時空の大学問」を発表され、「陽宅風水堪与師賞」を受賞されました。おめでとうございます。私の発表の時には通訳をして頂き、ありがとうございました。
 また、現代風水研究会へも「貢献賞」を頂きました。
 本大会を企画・運営頂いた、秦西平会長と実行委員会の皆様にお礼申し上げます。
 大会が成功したことをお慶び申し上げます。

広島城下町の風水

世界易経大会の様子

  • 発表の様子
    発表の様子
  • 泰西平会長から賞状の授与
    泰西平会長から賞状の授与
  • 易海陽光さんとの記念写真
    易海陽光さんとの記念写真
  • 会員との記念写真
    会員との記念写真
  • 風水大師賞
    風水大師賞
  • 貢献賞
    貢献賞

広島城下町の地理風水

現代風水研究会 会長 吉村徳則

1. はじめに

 私が生まれ育った町、広島は風水のモデルとなるような地形をしている。
まず最初に、広島の特徴として、①太田川の三角州として形成された平坦な地形 ②1600年頃から城下町として計画された経緯 ③現在では人口120万人を擁する全国第10位の都市として発展したこと。このような歴史的事実を風水の事柄と突き合わせて検証してみることとする。

2. 広島城の築城

広島は太田川の流れによって形成された三角州である。東北から西南に向かって山が龍脈として伸びており、最後はコの字型に座山となっているのである。北部から太田川が南下し、途中、6本に分岐しており、典型的なデルタ地帯となっている。
戦国武将で中国地方の覇者となった毛利元就(1497年~1571年)は広島市から東北約45㎞に位置する現在の安芸高田市吉田町の山城「郡山城」を居城としていた。その孫である毛利輝元(1553年~1625年)の代には山城では敵からの防御に優れるものの、城下町としての発展には乏しいこと。水運に恵まれないことなどの理由から、海に近いデルタ地帯を城地とすることにした。1589年に郡山城を出発し、広島へ向かい城の位置決めのために山に登り測量を行なった。毛利輝元と家臣は、最初に明星院山(現在の二葉山)に登り、次に西に位置する己斐松山に登って、両側から通過する線を確認した。次に新山(現在の見立山)に登り、宮島にある弥山(みせん)との線を引き、その交わる点を広島城の位置として決定したと伝えられている。

図1. 広島城の位置決めの図(現在の地形を元に作成)
図1. 広島城の位置決めの図(現在の地形を元に作成)

 広島城の縄張り(区画決め)は豊臣秀吉の軍師であった黒田孝高(官兵衛)が助言したようである。「島普請」というように川の中州を埋め立て、地盤を安定化させるために相当な苦労があったものと推測される。
 城下町作りは城を中心として、家臣の武家屋敷を廻りに貼り付け、その周囲に商人町や寺社仏閣を配置する、いわゆる「町割り」が計画的に行われた。
 1600年前後は豊臣政権から徳川政権へと権力が移ったため、広島城下町も毛利輝元、福島正則、浅野長晟と城主が変わり、商業の繁栄のための道路の移設や他国からの防衛に備えるため、寺社の移動が行われたほか、城主別邸の庭園として「縮景園」が作られた。

毛利輝元
1591年入城
1600年退城
広島城の築城
不動院と国泰寺の建立
福島正則
1600年入城
1619年退城
外郭の整備、西国街道の移設
仏護寺の移設
浅野長晟
1619年入城
1632年死去
広教寺を移設する
藩主別邸「縮景園」を建設

 江戸時代(1603年~1867年)の広島城下町を表したものに芸藩通志(安芸国広島藩の地誌 1825年に完成)がある。その一節に三方を山に囲まれ、南に海と島がある地形で、大変繁栄していると説明している。

3.四神相応と鬼門封じの配置

 広島城の位置が決まって1589年4月15日に着工し、1599年に完成した。それもつかの間、1600年10月に起きた「関ヶ原の合戦」で西軍が敗北。総大将となった毛利輝元は長州(山口県)へ移封(いほう)させられた。それに代わり、福島正則が広島城に入城すると共に、広島城と城下町の整備を引き継ぎ、完成させたと言われる。

現在の広島城天守閣

1945年に戦災で焼失し、現在の建物は1958年に再建されたもの
五層、高さ約39m
座山座向 丑山未向
座25度、向205度

現在の広島城天守閣

 城地を計画するのに、防衛のために寺院を配置することが行われた。これが四神相応と鬼門の備えというものに重なるのである。すなわち北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎の配置にするというものである。また、古代中国では東北を鬼門、西南を人門、西北を天門、東南を地門と位置づけているが、日本ではとりわけ鬼門の方位を重要視する。
 広島城を中心にして八方位を守護する寺社仏閣が存在するだろうかと当てはめてみた。

 まず、北には不動院が該当する。不動院は平安時代(7世紀~11世紀頃)の創建で安芸安国寺と称していた。戦国時代(15世紀末~16世紀末)、戦乱により衰微していたが、毛利氏の外交僧である安国時恵瓊によって再建された。南の国泰寺は1594年に安国寺恵瓊が創建したもので、広島城を中心点としてこの二カ寺は南北一直線に位置している。ただし、国泰寺は1978年に広島市西区己斐へ移転しており、現在は隣接している白神社(しらかみしゃ)だけが存在している。
 地図上で東西のラインに寺社がないか確認すると、西には寺町があって、その中でも最大の寺院として本願寺広島別院が城の真西に位置している。当院は仏護寺という名であったが1908年に現在の名称となった。特に東北鬼門は重要な方位であるが、広島城から東北に位置する明星院は毛利輝元の生母、妙寿院の位牌所として当時は臨済宗妙寿寺と称していた。福島正則が広島城へ入城したのを機に真言宗明星院と改められた。その後の浅野藩制になってからも鬼門封じの寺としての役割に変わりは無かった。

 一方、人門(裏鬼門)にあたる西南には広瀬神社があるが、かっては隣接して臨済宗洞春寺があった。ここは毛利元就の菩提寺で、毛利氏が山口へ移封されたことに伴い1603年に山口市に移転した。このことから表鬼門も裏鬼門も先祖を祀ることにより守護してもらう意図があったのは間違いない。

 残るは西北天門の三滝寺と東南地門の多門院である。真言宗三滝寺は寺伝によると809年に弘法大師空海により創建。広島県重要文化財の多宝塔がある。多門院は1180年頃に呉市音戸町に建立され、毛利氏の広島城築城に伴い1590年に三滝山山麓に移転。1604年に福島正則によって現在地に移転させられた。
 このように毛利輝元は広島城の四方八方に寺院を配置していったが、後を継いで城主となった福島正則も寺院の再配置を進めていったのである。

 さて、不思議に思えるのは東の青龍にあたる位置に寺社仏閣が見当たらないことである。あると理想だと思えるのは縮景園の位置である。実は1606年に福島正則によって京都黒谷の浄土宗の名僧が広島に招かれ廣教寺を開いた。後に浅野長晟の時代になって移転させられ、元の土地が縮景園になったことが判明した。

福島正則時代の寺社配置

西北
天門
三滝寺

玄武
不動院
東北
鬼門
明星院
西
白虎
仏護寺
中央

広島城

青龍
廣教寺
西南
人門
洞春寺

朱雀
国泰寺
東南
地門
多聞院

浅野長晟時代の寺社配置

西北
天門
三滝寺

玄武
不動院
東北
鬼門
明星院
西
白虎
仏護寺
中央

広島城

青龍
縮景園
西南
人門
広瀬神社

朱雀
国泰寺
東南
地門
多聞院

4.風水による選地

 広島城の位置決めに風水の手法を使ったものと推測している。広島城の位置決めに使われた山は正に要となるべきものであろう。牛田山山系は馬蹄形をしている。

図2. 牛田山山形図
図2. 牛田山山形図

風水の古書「地理天機会元」に似たような図がある。

図3. 執簡入金門の図
図3. 執簡入金門の図

 牛田の地形を見れば、山が両腕のように囲み、その先に川が蓋をするように流れている。その土地は閑静な住宅地で住民は比較的豊かである。このような場所で果たして名士が出ているものか調べてみた。

 調査してみるとぴったりの人物が2人いるではないか。その1人は高橋琢也(1847年~1935年)農林商務省山林局長から東京医学専門学校(現在の東京医科大学)を設立。沖縄県知事、貴族院議員にもなった人物だ。もう1人は松井一實(まついかずみ)1953年牛田生まれ。労働省官房統括審議官、中央労働委員会事務局長を経て、広島市長に当選。2019年4月7日に3選を果たしたばかりである。
 広島城下町を地理風水によって鑑定していく中で「地理天機会元」で述べられていることが現実のものとして検証されたことは驚かされた。今後も城下町と地理風水の関係について研究を深めていきたい。

参考資料
「芸藩通志」(国書刊行会)
「広島城四百年」(中国新聞社)
「牛田町史」(牛田ニュース)
「二葉山をめぐる郷土史」(段原公民館郷土史クラブ)
「地理天機会元」(徐試可 輯、李非 校釈)