風水の語源

風水の歴史の中で晋の時代に実在した風水師 郭璞(かくはく)(276~324年)が書いたとされる(郭璞に仮託されたとの説もある)風水の原典 郭璞「葬経」には「気は風に乗じて散じ、水に区切られればすなわち止まる。古人はこれを集めて散ぜじめず。これを行いて止めるあり。ゆえにこれを風水という」という有名な言葉を残しています。これが風水を表す歴史上、最初の言葉とされています。またこれとは別に「得水蔵風」と言う言葉があり、これは、風水の意味を「水を得、風を防ぐ」ことであると意味づけたものです。すなわち風水とは良い気が集まる場所を探す術であります。古代の中国人は経験上、北の山を背にして、山裾が両側に囲むように伸び、南側に広い平地があるような場所を吉地と考えました。風が吹いても山に囲まれているので、発生した気は飛ばされません。そして南側に平地を取り巻くように川が流れていると、気はそこで止まる というわけです。

郭璞
郭璞

郭璞は、字(あざな)を景純といって、河東(山西省)の人であった。博学多識で、超凡の洞察力を持ち、天文地理・河図洛書・占卜予言・墓相家相など、みな奥義を窮めざるはなく、よく死者霊魂の実情をも測り知ることができた。
神仙伝より

龍・穴・砂・水

風水とは本来、地形を見ていく手法です。山や川、土地の起伏などで大地の気の流れを読み取っていきます。特に龍・穴・砂・水という四つの要素を重要視します。

風水モデル
  • とは龍脈のことをさします。龍脈とは人体でいえば経絡に例えられます。すなわちツボとツボとをつなぐ気の通り道。ひときわ高い山を図では祖山としています。ここから発生した気が、山の連なりを通って流れていきます。その途中で、やや高い山があって、これを少祖山と位置づけています。さらに山の連なりは次第に低くなっていきやがては平野 部へと終着します。これがあたかも龍の背のように見えることから龍脈といいます。
  • (けつ)とは龍穴(りゅうけつ)のことです。大地から気が吹き出ている場所です。人体でいえばツボにあたります。風水師はそのような場所を探して寺院や墓地の選定を行いました。
  • (さ)とは山が両腕で囲んだように見える形をいいます。これで、強風などで気が散逸するのを防ぎます。向かって右側の砂を青龍砂といい、左側を白虎砂といいます。青龍砂と白虎砂のバランスが良いことが要求されます。この山のことを風水では父母山といいます。砂が両腕で守る形となる平野部を明堂(めいどう)と言います。砂が壮大で、明堂が十分な広さであると風水的に良い都市が形成され、発展していきます。
  • 水龍は川を意味します。川が山に囲まれた平野部を帯(腹に締めるベルト)のように取巻いて流れるのを吉、逆は凶です。洪水になったときに後者は侵食されるからです。また、川の流れはゆったりと流れている方が好ましいです。
  • 案山は水流の先、朝山はさらにその先にあって、流れてきた気を止める役目を果たします。

このような形を風水モデルとよんでいますが、わが国の地形を見ても、めったに見つかるものではありません。私が住んでいる広島市がそのような形になっているのに気付き、驚かされたものです。

地理風水

都市計画に使われた風水技術のことです。中国の長安、洛陽、南京、北京といった古都は風水で選地と設計が行われました。北京に残る清朝時代の王宮「紫禁城」を見ると、周囲を高い城壁で囲んでいます。北側には土を盛って人工的な山をつくりました。これが背後の備え、すなわち玄武と位置づけます。前面の南側には朱雀のシンボルとして人工的な川を作っています。明堂はいうまでもなく天安門広場です。

地理風水

わが国においては、遣隋使や遣唐使以前から仏教と共に風水の技術が渡来したと考えられています。奈良の平城京や京都の平安京、福岡の太宰府は風水思想を取り入れて作られたと推測できます。後には鎌倉幕府による鎌倉の町づくりや江戸幕府による江戸の町づくりにも風水思想が垣間見ることができます。これらの地理風水としての特徴は四神相応と鬼門思想が混在しているのが特色です。

地理風水

陽宅風水

陽宅風水というのは住宅の風水を意味します。中国では王侯貴族や富豪などが風水で良い邸宅を作ったことに始まります。中国では現在も明清時代の家屋が残っていますが、その代表的なものとして、四合院というものがあります。建物は北を背にして南に向いて建てられています。真ん中に中庭があって、それを囲むように主人の一家が住む母屋が北側に、子供の一家や使用人が東と西の別棟に住みます。四周は塀で囲まれていることから四合院と言われます。その構造の目的としては外部からの侵入に備えるものです。入口である門も外門を入ると小庭があって、さらに奥に内門があるという構造です。中庭にたたずむと、気の存在を感じます。四方に囲まれた構造のため気が散逸しないということなのでしょう。

陽宅風水

陰宅風水

中国におけるお墓の風水を指します。龍穴を山野に探して遺体を土葬するというものです。生まれたときに母体から出て、死んだときに母体(母なる大地)に帰るという意味を持ちます。大地のエネルギーが遺体に作用し、子々孫々に優れた人材が生じるというのが陰宅風水の思想です。陰宅風水で作られたお墓は中国の農村部で見ることができます。山の斜面に半ドーム形の大きなお墓があって、前面が開けていて川が流れています。

陰宅風水

これまで、地理風水、陽宅風水、陰宅風水と3つの分野があると説明しましたが、現代のわが国において、地理風水は都市計画に取り入れられたものがごくわずかではありますが、見ることができます。次に、陽宅風水については、多少の風水建築がある程度でしょう。風水ブームといってもここ10数年くらい騒がれましたが、最近では書店での風水本も少なくなり、風水ブームは過去のものとなった感があります。 最後の陰宅風水に至っては、天皇陵以外は法律的に許されていないので、直接関係するものではありません。

鬼門思想

古代中国では、東北方位は異民族が度々侵攻してきたこともあって「鬼門」と呼び、恐れました。我が国にもそれが伝わり、都城の計画に取り入れられてきました。「鬼門」の反対側にあたる西南を「裏鬼門」と呼び、その備えとして、有力な寺社仏閣を建立しました。江戸城下町の配置を見ると、「鬼門」側に「寛永寺」を「裏鬼門」側には「増上寺」がそれにあたります。そして、面白いことに、江戸城では「鬼門」、「裏鬼門」の両側には門を配置していません。

鬼門思想

現在では鬼門という言葉は死語のようになっていますが、東北鬼門方位には「東京スカイツリー」が、そして、西南裏鬼門方位には「東京タワー」がそびえ立っているのは何か意味有り気です。

四神相応

風水では都市の四方を守護する聖獣のことを、「四神」と言い、それが東西南北に相対するので、「四神相応」と名付けました。すなわち、東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武としています。東、北、西の三方は山屏風のように背後に存在し、南の朱雀は海、または湖があることが四神相応の地形です。京都の平安京では、この形がはっきりと分かります。さて、東京の場合は青龍が弱く、白虎が強い地形となっているのが特徴です。そして玄武は日光、朱雀は東京湾であることは間違いないでしょう。

四神相応

現代風水への思い

現代では、都市計画に風水思想を取り入れることは無いと言って良いかと思います。それが可能であるのは住宅の分野です。それにしても、都市の温暖化は進み、毎年のように豪雨災害に悩まされている現代社会にあって、風水の良い住所とはいかにあるべきか。私個人としては「防災と健康に配慮した風水住宅」のあり方を考えていきたいと思います。